「おおかみこどもの雨と雪」感想(4月に書いたものの再録)

 先ほど見たところ。
 年末、横浜に帰省していたとき、親友の大久保がわざわざ大阪から遊びに来てくれた。彼が、うちの末っ子の恵美の様子を見て、少し前に見た「おおかみこどもの雨と雪」の雪ちゃんに似ていると言った。私もだいたいあらすじを聞いていたので、実際うちの子たちは、そのおおかみこども達と境遇がよく似ているかもしれない、という話になった。人間の世界で生きるか、狼の世界で生きるか、いつかどちらかを選択するというのは、マレーシア人として生きるか、日本人として生きるか、どちらの民族性も維持するか、あるいはどちらでもない者になるか、という選択をいずれするであろう我が子らの境遇とすこし似ている。そのような境遇を、選択をしなければならない「苦悩・痛み」としてではなく、「祝福」と思わせてくれるような映画ではないかと、すこしだけ期待した。
 この映画も含め、細田守氏の監督作品は、私の友人の間でも好き嫌いが分かれて面白い。私自身は、観ていて楽しい映画と思うが、その場でひっかかるところもあるし、後でよく考えてみて、やはりこれはまずいのでは、と思うところはもっとある。私がいつも聞いているシネマハスラー宇多丸氏は「時をかける少女」、「サマーウォーズ」などの過去作も含めて、細田監督を大絶賛している。他方、宇多丸氏とも親しい映画評論家の町山智弘氏は、「サマーウォーズ」を「どうでもいい映画」と評しており対照的だ。それは、町山氏の根っこがパンクだからだ。そして、細田監督作品が根っこで保守的で現状肯定的だからだ。
 町山氏も指摘しているが、「サマーウォーズ」で主人公の味方となる、信州上田の旧家の一族は、権力側の人間ばかりだ。唯一の例外が、事件の発端を作る先代の妾腹の侘助で、家を飛び出してアメリカの民間研究所でIT研究に携わり、新型の人工知能プログラムを開発する。この人工知能が暴走して、本編の敵役になるわけだ。しかし、もし侘助視点からの痛快な物語があるとしたら、外国で自分の力で成し遂げた成功を活かして、自分を余計者扱いした親戚連中や日本社会を傲然と見返してやるというものではないか。でも実際の物語では、「ばあちゃん、ばあちゃ〜ん」と泣きながら、自分から飛び出した家の家長に許しを請い、また仲間に入れてもらって、親族らと一緒に、自ら作った人工知能と戦うのである。ああかっこわるい。
 話を「おおかみこどもの雨と雪」に戻して。主人公の母子は、現実の親子の暗喩と感じさせる。冒頭で述べたように、まず二つの国で生きうる可能性を持った我が家のような国際結婚家庭の子供たち。また、「狼への変身発作」を障害・病気とみれば、障害・病気をもった子供と母の物語と見ることもできる。そして、ここコタキナバルには、原発事故など日本での生活の不安などから、当地で生活をされている日本人母子がいて、彼女らと重なる部分もある。
 そういう自らの現実を、この映画に重ねることで、勇気づけられるというところもある。でも、やはりひっかかる部分もある。たとえば、主人公は、子供を捨てて生きる選択もあったはず。葛藤したはず。決断した後も、時に後悔したはず。そういうことをていねいに描かず、周りとは違う子供たちを一人で育てるという選択について「それは十字架ではなく、それこそが私の生きる喜び」とばかりに、笑いつづける彼女を見ると、勇気づけられるというか、「この女、ダイジョブか」と多少不安になる。だから、劇中で菅原文太(声)が、彼女に「笑うな!」というところには極めて共感した。さらに、彼女の行動の中身が保守的である分「こう生きるべき」という抑圧とも背中合わせにも感じられる。まず、なんですかこの女は。20代前半にして、まともな学生ばかりの大学に通い、ミシンで子供服を仕立て、おんぼろ屋を自分でカナヅチ持って修理し、おまけに田舎の気むずかしい隣人達にも愛されるって。私、そんなすばらしい親にはなれません。すいません。「良妻賢母」、「賢婦人」といった古くさい言葉さえ頭をかすめる。
 また男の子(雨)と女の子(雪)が選択する生き方に、ステロタイプジェンダー観が感じられて、ここも苦しい。最後に、母と決別し山の頂きで遠吠えするのが雪ちゃん(女)で、それと時を同じくして、初恋の相手に自らの真の姿を受け入れられ涙するのが雨くん(男)だった方が、私にはおもしろかった。あるいはもう物語の最初から男女逆転して、若い男子学生が美しい狼女と恋に落ちて子供をもうけるが、って話でも良い。狼女に先立たれた男は、幼いおおかみこどもを連れて、人目を逃れて全国行脚、冥府魔道の道を行く。って、これがほんとの「子連れおおかみ」。